Ecole de français du Kansai -Traduction, Interprétariat, Guide-
Ⅱ. ガリア・ローマへ(2010拡大するガリア・ローマ(2010))
Ⅱ. 拡大するガリア・ローマ(2010)
ガリア・ローマ再訪
ガリア・ローマ再訪写真
美食の都リヨン
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美食の都リヨン 写真
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ローヌの港湾都市
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ローヌの港湾都写真

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黒い聖母と岩山の礼拝堂
航空写真で見つけたローマ遺跡
泉の都エクス   写真  
教皇庁のあった町 
―アヴィニョン―
Ⅰ. ガリア・ローマへ(2007)
Ⅲ. 三たびガリア・ローマへ(2016)
旅の終わりに
あとがき

 教皇庁のあった町 ―アヴィニョン―


 翌日エクスからリヨンに向かって北上する。この日の目的地はローヌ川中流域左岸の町アヴィニョンAvignon だ。フランスの中でもトップクラスの観光地だがさしたる興味があったわけではない。だが、実際訪ねてみると、ここはここでなかなか面白いところだった。
 アヴィニョンは前2世紀から4世紀ごろまで栄えたガロ・ローマの植民都市の一つだったのだが、ローマ時代の遺跡は町なかにごく一部が残っているだけであまり見るべきものはない。この町を有名にしたのは、14世紀に一時ローマから教皇庁が移された「アヴィニョン捕囚」だ。
 14世紀初頭、カペー朝のフランス王フィリップ4世とローマ教皇庁との対立が顕在化し、フランス人枢機卿だったクレメンス5世が教皇に選出されると、それをきっかけにフィリップ4世はごり押しで教皇庁をアヴィニョンに移し、1309年から1377年まで7代にわたる教皇の座所となった。これを前6世紀末の新バビロニア王ネブカドネザルのエルサレム征服によって起きたユダヤ人の強制移住「バビロンの捕囚」になぞらえて「教皇のバビロン捕囚」あるいは「アヴィニョン捕囚」と呼んだのである。
 1377年にグレゴリウス11世がローマに戻ることでアヴィニョン捕囚は終わったのだが、この間7代の教皇はすべてフランス人だったのだから「囚われの身」という意識はなかったんじゃないかな。翌年グレゴリウス11世の死去に伴ってナポリ人のウルバヌス6世が選出されるとフランスと教皇庁の対立が再燃し、フランス人枢機卿が中心となって対立教皇を選出する事態になり、それぞれを後押しする国々を巻き込んでカトリック教会の大分裂シスマが起こった。これは11世紀のカトリックと正教会の分裂以来最大の教会大分裂で、「大シスマ」と呼ばれたのだが、こんなものは平たく言えば教皇財産権をめぐる醜い争いで、それに領土や利権を争う各国が加担しただけである。そのような教会の腐敗や権力との癒着がのちのプロテスタント運動につながっていったのだ。
 前置きが長くなった。
 アヴィニョンは全体が城壁で囲まれた旧市街歴史地区が世界文化遺産に登録されており、北に寄った高台に教皇庁宮殿がある。旧宮殿と新宮殿が並んでおり、一見武骨な外観で派手さや優雅さはない。巨大なのだが、内部も質素に見えるのがなにか不思議な感覚だった。宮殿は石灰岩の小山に築かれているので、基礎の部分が削り出した岩塊むき出しだったり、外周道路の一部が深い切通しだったりして見事なものだ。新宮殿は美術館になっており、現代アートの特別展が開催されていた。宮殿前の広い石畳の広場にも現代彫刻がいくつか展示されていて歴史的雰囲気とは馴染まないが、それはそれでまあいいか、と思わせるものだった。