Ecole de français du Kansai -Traduction, Interprétariat, Guide-
Ⅰ. ガリア・ローマへ(2007)
はじめに
旅のはじめでいきなりつまずいた
地中海世界
ローマ属州
ガリア・ナルボネンシスの玄関 ―マルセイユからサン・レミへ―(1~3)
写真
天空の城と石の家
ラヴェンダー畑に建つセナンク修道院
ワイン街道をヴェゾンへ
オランジュ ―ローマが息づく街―
山上の砦
ユゼスからポン・デュ・ガール
ガリア・ナルボネンシス最初の植民都市
聖地への道の起点 ―サン・ジル―
ローマ、聖地、そしてゴッホ
港町マルセイユ
Ⅱ. 拡大するガリア・ローマ(2010)
Ⅲ. 三たびガリア・ローマへ(2016)
旅の終わりに
あとがき

 
港町マルセイユ

 夕食は旧港沿いのレストラン街にあるブラッスリーでスープ・ドゥ・ポワソンSoupe de poissonとガンバGambasという大ぶりなエビのボイルを食べた。スープ・ドゥ・ポワソンはブイヤベースから具を抜いたようなもので、濃厚な魚介スープにアイオリというニンニクマヨネーズのようなものを塗ったパンを浸して食べるマルセイユの名物だ。エクスのロゼを合わせてみたが、観光地の安食堂といった感じで味は大したことなかった。
 夜の旧港は岸壁で夜釣りをして盛り上がっている連中がいたり芸人やミュージシャンがストリートライブをやっていたりして賑やかだ。マルセイユの夜の治安はあまり良くないと聞いていたが、観光客の多い場所だからだろう、結構大勢の警官がパトロールしていたおかげで不安は感じなかった。桟橋に停泊しているクルーザーやヨットをカラフルな照明でライトアップしているし、サン・ニコラ要塞もライトアップされて夜空に浮かび上がっている。夜景の写真を撮っていたら黒人の不良少年たちが近寄ってきて「俺たちかっこいいだろ、写真撮ってくれよ」と無邪気に言うのでエミネムのポーズなんかして一緒に写してやった。カメラを渡しはしなかったけどね。
 旧港は真西に開いているのでホテルの窓から見た夕日もきれいだったな。
 翌朝早く起きて窓から旧港を眺めていると、小さな漁船が桟橋に入ってきて魚を水揚げしている。岸壁に組み立てた屋台でおかみさんたちが威勢良くそれを売り出した。こりゃあ見にいかなあかんということで早々に朝食を済ませ、屋台見物をしながらイフ島行きの出航時間を待つことにした。魚屋の屋台は旧港の名物で、買い物に来た地元客で大賑わいだ。カサゴにアンコウに太いアナゴといったブイヤベースにするとうまい魚も、スープを取るのに使う小さなイシガニや小エビなどもどれも生きている。チュルボという真っ黒なカレイに40㎝はあろうかという舌平目、南仏らしくタコもいる。ヒメジという髭の生えた赤い魚は日本ではキス釣りの外道としてあまり喜ばれないが、フランスでは高級魚らしく、真っ先に売り切れた。
 イフ島に向かう観光船は目の前の桟橋から出港する。イフ島はマルセイユの沖合に浮かぶ岩肌むき出しの小島で、16世紀に建てられたシャトー・ディフChâteau d’If という要塞の島でもあるが、アレクサンドル・デュマAlexandre Dumas の小説モンテクリスト伯Le Comte de Monte-Cristo の舞台といった方が通りがいいだろう。この要塞は実際に19世紀まで監獄として使用されており、多くの政治犯や宗教犯が収監されていた。船着き場は崖の下の狭い場所にあり、そこから岩を穿ったトンネルに刻まれた石段を上って島の頂上に出る。頂上は一面平らに整地されていて全体が要塞になっている。監獄だった要塞はそれほど大きくない建物で、地上階には小さく区
切られた独房があり、広めの独房には家具や暖炉まであったりする。当時監獄は有料で金持ちや貴族の囚人は金を払ってこうした房に入れてもらっていたのだという。一方貧乏人は窓もない地下の雑居房に押し込められていた。島には畑や石切り場があるわけでもなくきつい労役もなかっただろうから、ただただ無聊の時だけが過ぎていったに違いない。房内には壁一面に囚人たちが刻んだ落書きが残されている。中庭に井戸があるが、こんな岩だけの小さな島で水が湧くとは思えないから天水を溜めるためのものだろう。
帰りの船はマリンリゾートの島ラトノー島に寄ってからマルセイユに戻る。それにしても海のきれいなこと。水深によってライトグリーン、ブルー、紺と色が変わり、澄みきっていてフランス第2の大都市のすぐ沖とは思えない。朝旧港の屋台で売っていた魚やカニがみんな健康そうでいかにもうまそうだったのもなるほどと頷かされる。昔は江戸前の魚もあんなだったんだろうな。

マルセイユ旧港の夕日 旧港の朝市
イフ島 監獄の中庭