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ロクマリアケ Locmariaquer
そんなこんなで、直接ケルパンイル岬の先端の村ロクマリアケに向かったのだが、現地の港を見たら、干満の差が大きい上に遠浅で、とてもじゃないがフェリーなんか運航できそうにない。日本なら地元出身の代議士があれこれ画策してあっというまに橋を架けてしまいそうなところだが、そんなことをしたら鏡のような内海にたくさんの島が浮かぶ美しい風景は台無しだろう。フェリーがないと聞いたとき、やっぱり基盤整備が遅れてるんだなあとふと思ってしまったことを恥じた。
ここには今は倒壊している世界最大のメンヒルであるグラン・メンヒルGrand-Menhir、エル・グラTumulus d’Er-Grahの大ケルン、ターブル・デ・マルシャンTable des Marchandsという封土を持つケルンが近接して残っている。海岸部にはメンヒルを伴う肘形に屈曲したピエール・プラトPierres Platesというドルメンがあり、少し離れたところにはマネ・リュドMane-Ludという巨大な墳丘墓もあるなど、メガリスを訪ねる旅でははずせない地域である。
ちなみにメンヒルはmen(石)hir(長い)というブルトン語だが、ドルメンは19世紀の考古学者がブルトン語ふうに造語したものであるらしい。ブルトン語では古来taol-ven(石のテーブル)またはpeul-ven (石の寝台)と呼ばれていた。したがってターブル・デ・マルシャンドは「マルシャン家のテーブル」ではなく、「マルシャン家の敷地にあるドルメン」ということで、実際そのとおりだったらしい。
このドルメンは巨石で構築されていて割り石で覆われており、その上を薄い盛土で覆っている。日本の横穴式石室墳を連想させるが6000年も前のものだ。身をかがめて入る入り口の天井石(まぐさ)はきれいな長方形に整形されている。硬い花崗岩をこつこつ叩いて整形したのだろうが、驚くべき技術の高さである。なにしろピラミッドより古いのだから。側壁と奥壁は間隔を持たせて並べた巨石の間に割り石を積み上げており、奥壁は半円形にカーブしている。天井は巨大な一枚岩だ。石室内面には石斧、盾、わらびのような羊飼いの杖などをあらわしたと思われる線刻があるのだが、天井に線刻がある例はここ以外にあまりないという。天井には巨大な斧と途切れたヤギの線刻があるのだが、これがガヴリニのケルンの線刻とつながることが判明して、破壊されたメンヒルが転用されたことが明らかになったのである。いろんな線刻はピエール・プラトでも見ることができた。
エル・グラのケルンは上から見た姿が細長い台形をしており、バチ形に開く部分の上面は封土で覆われている。現在内部を見ることはできないが、いくつかのドルメンを積み上げた割り石で覆っている。実はこのケルン、早くに積石は崩れドルメンも開口していたのだが、後に紹介するルジックが地元民の反対を押し切って19世紀に積みなおしたものだという。今もその復元の妥当性については議論があるようだ。
圧巻はグラン・メンヒルだ。倒壊して4つに折れているが、立っていれば23mあった。重量も推定350tで、文字通り世界最大のメンヒルだ。本当に立っていたんだろうか。第一どうやって立てたんだ?こんなものの重心をとって立てるなんて現代の技術をもってしても相当困難だろう。基礎の部分は発掘されているんだろうか。どうもよくわからない。まあ立てていなかったのなら4つに割れることはないかもしれん。グラン・メンヒルの石材は対岸のリュイ半島から運ばれたものだということがわかっている。いかだの下に吊り下げて海を渡ったのだろうが、それだってすごいことだ。
マネ・リュドはほぼ東西を向いた巨大な隅丸長方形の墳丘墓で、墳丘の上に2基のメンヒルが立っており、西側の墳丘下にもメンヒルがある。墳丘上に大きな鉄板の蓋があって鍵がかかっているから埋葬施設を見ることもできるのだろうが、説明版を見てもどこに申し込めばいいのか書いてなくて判らなかった。ここで古墳を眺めている初老の婦人に出会い、つれあいがしばらく話をしていた。どうやら地元の人らしいのだが、つれあいによるとなかなかのインテリでちゃんとした専門知識があってかなり詳しい話をしてくれたらしい。ボランティアで解説しているのでもなさそうだし単なる通りすがりらしいのだが、かつて古墳の発掘に参加したことでもあるのだろうかと想像してみた。こんな人に出会える楽しみもわれわれの旅にはある。
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