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巨石建造物
定住生活の始まった新石器時代は、人類が恒久的なモニュメントを残すようになった時代だ。木造のものは当然ながら現代まで残っていることはないが、発掘で確かめられた遺構からは中国の新石器時代に木と土で相当大きな建造物が作られていたことが知られている。西アジアではそれは日干し煉瓦によって構築された。
ヨーロッパでは総称してメガリスという巨石による建造物が広く知られている。その分布範囲はほぼヨーロッパ全域に広がっていると言っていい。有名なのはここブルターニュとイングランドで、ドルメン、メンヒル、ストーンサークルといった言葉は誰もが耳にしたことがあるだろう。ドルメンは墓であり、メンヒルやストーンサークルは祭祀の場であると考えられている。
巨石による建造物のうちドルメンより早くから築かれたのは細長い石を立てたメンヒルで、最も古いものは7500年前までさかのぼるという説がある。この説の根拠は、このあと見るターブル・デ・マルシャンやガヴリニ島のドルメンに破壊された巨大なメンヒルの断片が転用されているところにある。ドルメンは側壁を構成する支石の上に天井石を載せたテーブルのようなイメージが定着しているだろうが、これもさまざまな形態のものがあり単純ではない。
メガリス見学の便のために用語と概説的なことを少しだけ整理しておこう。
「メンヒルMenhir 」には独立したものもあるが、列をなすものを「列石Allignement 」という。太陽や月の方向と関係があると言われているが、真実は解明されていない。列が複数あるものの端にはしばしば「囲いEnceinte
」と呼ぶ半円形または方形に区画する列石が取り付くことがある。「囲い」はまた、広場を列石で方形に取り囲んだものを指すこともあり、祭祀の場と考えられている。ストーンサークルはフランスでは「クロムレックCromlech
」と呼ばれ、列石を環状に配置したものである。英国のウェールズに残るストーン・ヘンジは加工した石柱の上部を桁のような石材でつないでいることから特殊例と考えられ、クロムレックとは別物ととらえられている。
「ドルメンDolmen 」にはいろいろなタイプのものがある。数個の側石を天井石で覆ったものを「石室墳Dolmen simple 」といい、それに入り口通路がついたような「羨道付ドルメンDolmen
a couloir 」は、羨道より玄室の方が高く大きく造られるのが一般的だ。羨道と玄室が肘形に曲がる「肘形ドルメンDolmen coude 」、同じ高さのドルメンを長くつないだような「通廊式ドルメン(覆われた通路)Allee
couverte 」というのもあって、これらは内部に仕切りを持つものや側面に入り口を持つものもある。羨道を持つドルメンや通廊式ドルメンの中には通路から張り出すように複数の玄室が作られているものがあり、「翼廊ドルメンDolmen
transepte 」と呼ばれる。また、天井石を持たないものもあって、板石を合掌屋根のように組み合わせた「支えあう通路Allee couverte
arcboutee 」というのもしばしば見られる。
これらのドルメンの多くが本来封土で覆われていたのか石材が露出していたのかは意見の分かれるところである。少なくとも側壁を立てたり天井石を載せたりするときには土でスロープを作る必要があったに違いないが、完成後その土を取り払ってしまったものが多いという説もある。
1基ないし複数のドルメンを土または積み石、あるいはその両方で覆ったものを「墳丘墓Tertre tumulaire 」とか「古墳Tumulus 」という。積み石だけで覆ったものは「ケルンCairn 」とよぶが、積石塚の中にはドルメンのような玄室ではなく切り石を持ち送りアーチ式に積んで構築した「窯状の玄室Tholos 」を納めたバルネネのケルンのような例もある。
発掘調査が行われたところでは多数の人骨が収められていたケースが多いのでこれらは集団墓である。巨石を用いて墓を構築するということはその集団のもつ力を誇示するものであったかもしれないが、傑出した人物の権力を誇示するようないわゆる王墓では決してない。最近の研究では一か所の墓所から発見された多数の人骨にDNAの共通性が認められたことから血縁を紐帯とする集団の墓であるという考えが主流になってきているようだ。
集団墓だから当然何度も出入りする必要があった。バルネネのケルンなどでは円形の板石を入り口の脇に転がすような閉塞施設があるのだが、常に開口していたものもあったと考えられている。
埋葬施設としてはほかに小規模な「集石墓Tombelle 」、板石を組み合わせた「箱式石棺墓Coffre 」なども知られている。
ドルメンは約7000年前からほぼ3000年の間作り続けられたというのだが、その変遷は細かく解明されているとはいえない。大雑把に初期のものは「石室墳」あるいは「羨道付ドルメン」で、「通廊式ドルメン」や「翼廊ドルメン」、「肘形ドルメン」がそれに次ぐと言われている。ケルンや墳丘墓の中には数次にわたって墳丘を拡張したものがあり、こういったところでは内部の石室の形態の変化はもう少し明確に読み取ることができる。
新石器時代中期以降に構築されたと考えられるドルメンの中には、副葬品として青銅のナイフなどが発見されるものがあり、青銅器時代まで埋葬が続いていたことが明らかになったところもある。
メンヒルやドルメンには何種類かの図像が線刻されていることがある。「斧」が最もわかりやすいが、「盾」、「へら」、「蛇」、「杖」、「鋤」、「牛の角」などと呼ばれる図形は別の解釈も可能だろう。盾のような図形はそれ自体人面のように見えなくもないのでこれを女神像だとする説も根強い。幾何学的な図形もあるが意味不明である。その中で2個一対の半球形のレリーフだけは乳房の表現と見て間違いあるまい。大地母神だ。
メガリスが本来開けた場所に構築されたのか、あるいは森の中に造られたものなのかは判らないが、当時の環境を考えれば後者の可能性のほうが高いかもしれない。森林を切り開いた場所は大切な耕地だっただろうから。
ごく大づかみではあるが、これくらいの予備知識を入れてさあメガリス巡りに旅立とう。
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