Ecole de français du Kansai -Traduction, Interprétariat, Guide-
①ヴェゼール渓谷 ②レゼジー村 ③壁画洞窟と岩陰遺跡 ④洞窟と岩陰遺跡2 ⑤オーベルジュに泊まる
はじめに
トゥルーズToulouse

カルカッソンヌCarcassonne

ロカマドゥールRocamadourと
ロスピタレL’Hospitalet
スーイヤックSouillac
クロマニョン人の故地
あとがき―パリにて―
附:この旅で訪れた世界遺産
レゼジー村 Les Eyzies ―後期旧石器時代の世界の中心―

 レゼジー村の中心部タヤックTayacはヴェゼール川と崖の間に狭い平坦地があり、そこがレゼジーの目抜き通りだが、歩いても20分もあれば通過してしまうだろう。まるでお菓子の家のような村役場の隣には小学校がある。通りにはホテル、カフェ、土産物屋などが軒を連ねている。名前からして泊まってみたいと思い、日本から何度もメールを入れたのに反応のなかったオテル・クロマニョンはやっぱり閉まっていた。

崖にへばりつくように建てられた16世紀に廃絶したシャトーの廃墟を利用して国立先史学博物館Musee National de Prehistoireが置かれている。この周辺も遺跡で、旧石器時代中期のタヤック型尖頭器の標識遺跡として知られている。
 モダンなエントランスを抜けて展示室に向かうスロープを登っていくと、岩陰遺跡の7~8mもある土層剥ぎ取り断面がまず目を引く。最初のフロアは、前・中期旧石器時代から始まり、ネアンデルタール人の時代の石器、後期旧石器時代はオーリニャック期からマグダレーヌ期にいたる石器、そして中石器までがこれでもかとばかり膨大な数展示されている。数時間見て回ったぐらいではとても細かな形式的差異など理解できるものではない。
 上階には遺跡の発掘状況を示す平面剥ぎ取りや、骨角器、彫刻、壁画の断片など芸術的な遺物が展示されていてほっとする。ここでアブリ・パトゥのヴィーナスやマンモスの角に彫られたバイソンなど、小・中学生のころ書物で見てはるかな思いを馳せていた遺物をいくつも見ることができた。
展示室内には随所にビデオモニターが設置されていて、旧石器の製作技法や、骨角器の作り方、壁画に用いた岩絵具の作り方や吹き付けの技法などをわかりやすく解説した短時間の映像を流している。ちょうど遠足シーズンなのか、小学生の団体がいたが、皆ワークシートを手にけっこう熱心に見学していた。引率の先生がやたらと多く、生徒5人に一人ぐらいの割りできめ細かに指導しており、博物館などに見学に行くと指導や解説は学芸員に丸投げすることの多い日本の教師との対比が印象的だった。
ミュージアムショップはこぢんまりときれいにまとまっているのだが、絵葉書やTシャツなどいわゆるみやげ物が多く、書籍が少ない。しかも子供向けの絵本のようなものはいろいろあるのだが、展示品図録や解説書というものがなく、我々のような客には不親切である。

博物館から下ると、何軒もある土産物屋ではシレックス製の復元石器と一緒に本物の動物骨の化石やアンモナイトの化石などが売られている。店の奥にはなぜか恐竜の模型があったりしてなんだか可笑しかった。
本屋に入ってみたところ、考古学関係の本が結構充実していて、アンドレ・ルロワ=グーランA.ndre.Leroi-Gourhanの先史学辞典や新石器関係の概説書を買うことができたのは収穫だった。
ルロワ=グーランはフランスの先史学者だが、ヨーロッパにおける先史学は民族学と表裏一体のところがあった。少なくとも戦前においてはそうである。彼は1937年から2年間民族調査のため日本に滞在し、主として北海道でアイヌの調査をした。彼が28歳ごろのことであり、妻アルレットArlette が同行していた。このとき集めた資料やノートとアンドレが書き溜めた原稿をもとに後年アルレットが一冊の本にまとめたのが“Un voyage chez les Ainous ”(アイヌへの旅)だ。ルロワ=グーランは日本での民族調査をもっと続けるつもりだったらしいが、1939年になると急遽フランスに帰国している。国際情勢の悪化が急を告げていたからだ。その年の9月、ドイツ軍のポーランド侵攻をきっかけに第2次世界大戦が勃発した。日本が枢軸国として参戦するとフランスでは日本関係の本の出版が禁止された。「アイヌへの旅」のフランス語版が出たのがずっと後の1988年になったのはそのためである。
戦後パリ大学の教授となった彼が最初に持った講義は日本民族学だという。そんなことから学問的業績以上の親しみをルロワ=グーランには感じている。

村のメインストリートをほんの少し上流側に行ったところに村の古い教会がある。中に入ることはできなかったが、説明板を見ると、ここもサン・ティアゴ・デ・コンポステラへの巡礼者が立ち寄ったところだと書いてある。