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ブルトンまたはケルトの国
ブルトンの歴史
新石器時代の住人については不明な点が多いが、少なくとも鉄器時代以降ブルターニュはケルト人の土地だった。BC58年のガイウス・ユリウス・カエサルの征服によりガリア・ローマの属州となった後は長くアルモリカと呼ばれていた。もともといたケルト人たちもローマ化していったようだ。4世紀以降ローマの衰退に伴って全ヨーロッパに拡大したゲルマン人のうちアングロ・サクソンにブリテン島辺境に追われたケルト人が大挙してブルターニュ半島に逃げ込んできたのがブルトン人の起源であり、ブルターニュの地名の起こりでもある。現代フランス語でもグレートブリテン島はグラン・ブルターニュGrand-Bretagneであり、そのまま英国をさす。
アルモリカは中世以降ブルターニュ公国として統一され独立した国となった。その所領は現在のブルターニュにとどまらず、ペイ・ド・ラ・ロワールやバス・ノルマンディーの一部にも及ぶ広大なものだった。地理的な条件からゲルマン系フランク王国とイングランド王国とにはさまれて両国の領土争いの舞台となり、さまざまな介入を受け続けたものの、形式的にはフランク王国に臣従しながら独立を保っていた。英仏百年戦争のさなかには20年以上に及ぶブルターニュ継承戦争も起きている
1488年、男子の公位継承者がなかったブルターニュ公国で女公アンヌが即位すると、その弱みにつけこんだのがフランス王国だ。時のシャルル8世はブルターニュに攻め込むとアンヌと神聖ローマ帝国皇帝だったハプスブルク家のマクシミリアン1世との形式的婚姻を破棄させて自分と無理やり結婚させた。シャルル8世自身このときすでに結婚していたのだが、自分の離婚とアンヌの離婚両方を認めるよう教皇に強要したのだから、「王様お気は確かか?」みたいな強引さだった。シャルル8世の死後も、皇太后アンヌ・ド・ブルターニュはルイ12世との再婚を強要され、フランス后妃の座に2度つくという数奇な運命を背負った女性だった。いやあ、いいシナリオが書けたら映画ができそうだな。さらにはアンヌの死後、ルイ12世との間に生まれた姫クロード・ド・フランスが王太子時代のフランソワ1世と結婚したことがとどめとなって、1532年ブルターニュ併合条約が締結され、ついにブルターニュはフランスに完全に併合された。以後、フランスの王太子は代々ブルターニュ公を名乗ったという説がある。ブルターニュの継承権を持つ者がフランスの王位継承権をも持つという考え方なのかな。英国の皇太子が代々ウェールズ公を名乗るのも同じようなことなのだろう。
ブルターニュはフランス革命では反革命王党派の一大拠点であった。フランス三部会の中の第三身分の議員のうちブルターニュ出身者で構成されたブルトン・クラブが母体となって革命時に生まれたジャコバン派は、右派、左派の分裂やロベスピエールらの山岳派とジロンド派の対立など常に革命の主役の座にあったのだが、ロベスピエールの恐怖政治によりブルターニュにも粛清の嵐が吹き荒れた。こんなこともブルトン人たちの中央政府嫌いにつながっているのだと言う人もいる。
そんな歴史を持つブルターニュは近代まで中央政府にまつろわぬ地域としてずいぶん冷や飯を食わされてきたみたいで、ほかの地域に比べて開発が遅れ、比較的貧しい地域だったようだ。現在はフランス政府よりもEUの補助金がたくさん入って基盤整備が進み、夏のリゾート地として大勢のバカンス客がつめかけるらしい。ホテルもたくさんあり、アクセスもよくなっているが、われわれが訪れた9月末はすでに閑散としていて、休業期間に入ったホテルや店も多かった。まあ、都会化しないことで古い町並みや自然、ケルト系ブルトンの習俗などが残っていきやすい環境も形成されているのだろうから、開発の遅れがあながち悪いこととは思えない。ひところ日本の観光地の多くがプチ東京化して独自の「顔」を失いかけていた時期があったが、地方が田舎の顔を失えば国が顔を失うと思うのである。
今もこの土地で出会う人の多くがブルターニュを心から愛している一方、「パリなんか大嫌い」と言う。
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