Ecole de français du Kansai -Traduction, Interprétariat, Guide-
Ⅱ. ガリア・ローマへ(2010拡大するガリア・ローマ(2010))
Ⅱ. 拡大するガリア・ローマ(2010)
ガリア・ローマ再訪
ガリア・ローマ再訪写真
美食の都リヨン
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美食の都リヨン 写真
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ローヌの港湾都市
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ローヌの港湾都写真

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黒い聖母と岩山の礼拝堂
航空写真で見つけたローマ遺跡
泉の都エクス   写真  
教皇庁のあった町 
―アヴィニョン―
シャトー・ヌフ・デュ・パプ
ブドウ畑の中のいい宿
Ⅰ. ガリア・ローマへ(2007)
Ⅲ. 三たびガリア・ローマへ(2016)
旅の終わりに
あとがき

 教皇庁のあった町 ―アヴィニョン―2


 教皇庁宮殿の北側にあるプチ・パレ美術館Musée du Petit Palais にはたくさんの宗教画や彫刻が展示されている。いずれも13~16世紀ごろのものだが、保存状態はとてもいい。代表的な至宝としてはボッティチェリの聖母子像がある。
宗教画というものは洋の東西を問わずどこか薄気味の悪いものであまり好きな部類ではない。特にキリスト教の中世のものは、たとえば殉教の場面を描いたものなど剣で刺されたり矢を射こまれたりした殉教者がたいがい上目づかいで薄ら笑いを浮かべているので、気持ち悪くさえ思う。まあ、天上の光の中から天使が迎えに来たのを見上げて、神に召される喜びに笑みを浮かべながら死んでいく、という設定なのだろうが、神様なら非業の死を遂げないですむようにしてもらいたいものだ。
町の外へ出ると、ローヌ川にかかるこれまた有名なサン・ベネゼ橋Pont Saint Bénezet がある。橋の上で輪になって踊る童謡で知られたあの橋だ。ベネゼという羊飼いの少年が天使のお告げに従って建設に着手したという伝説が残っている。12世紀後半にかけられたこの橋は、ルイ8世によるアルビジョワ十字軍の侵攻で1226年に半分以上破壊された。当時アヴィニョンが異端とされたカタリ派(アルビジョワ派)を擁護していたからだ。その後再建が試みられるが、工事中の橋脚が洪水でなん度も流されたため結局再建されずに現在の姿で残された。橋の上にサン・ニコラ礼拝堂Chapelle Saint-Nicolas という小さな礼拝堂がある。19歳で橋の完成を見ずに死んだサン・ベネゼの遺体はかつてこの礼拝堂に葬られていたという。
アヴィニョンでの宿は、教皇庁宮殿からまっすぐ南に延びる町のメインストリートに面したレジーナというホテルだった。二つ星だが朝食込みで1室1万円ぐらいだから観光地にしては安い。ル・ピュイで泊まったホテルと同じ名だがチェーンではないらしい。旅の疲れもたまってきていたので夜の街に繰り出すことはせず、夕食もホテルのレストランで食べた。焼いたヤギのチーズのサラダとムール貝のシャンパン蒸しの前菜と、ホタテと野菜のソテー、海の幸のグリエ盛り合わせをメインに選んだ。ここもなかなか美味しくて、疲れた体で街に出ていいレストランを探すよりよっぽど正解だった。特に、トロトロに熟したヤギの白カビチーズをバゲットに乗せてこんがり焦げ目をつけたものには目を瞠らされた。
翌日シャトー・ヌフ・デュ・パプに向かうためにローヌ川沿いの道に出たところで労働者のデモを見かけた。赤地に鎌と槌を描いたソヴェート旗を掲げたトラックを連ね、大音量でインターナショナルを流している。極左トロツキスト政党支持者のデモだ。日本ではトロツキストとテロリストは同列に見られていてそれは歴史的にも仕方ないことだと思うが、フランスでは議会政党としてちゃんと議席も持っている。フランスの労働者の権利はかなり強く、ストライキなどの徹底ぶりもニュースでよく見るとおりである。
話はさかのぼるが、前回のプロヴァンス旅の時、寄り道したトゥルーズからマルセイユに向かうTGVの切符を買おうとしたらスト中だった。広いトゥルーズ駅の中で改札横の小さな窓口一つしか開いてなくて大行列だ。日本のみどりの窓口のような広い切符売り場はガラスのドアがロックされていて前に人だかりができている。入口の張り紙には「窓口の営業は6時から19時まで」と書いてあるのに今は朝の8時だ。一人の男がドアをドンドンたたいて、「営業時間やのになんで閉めとるんじゃ!さっさと開けんかい」みたいなことを大声でわめいたので、周りの乗客たちも騒ぎ出した。すると、奥から駅員が一人出てきて、「やっと開けるのか」と思って見ていたら、やおらその張り紙を引っぺがして知らん顔で引っ込んでいった。唖然としたね。