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はじめに
かつてギリシャやローマといった先進地から蛮族の住む地ガリアと呼ばれていたフランス。ギリシャ語では今もガッリアであることを2004年のアテネオリンピック開会式のテレビ放送で知ったこともガリア・ローマに眼差しを向けるきっかけになったことを思い出す。
フランスはいまや欧州連合EUの盟主たらんとする大国であり、有数の世界遺産保有国でもある。つれあいとのフランス旅の大テーマはわりと簡単に世界遺産に決まった。だが、ただ世界遺産を見物して回るだけの観光旅行にするつもりは毛頭なかった。
日本では1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」が世界文化遺産リストに記載されたのが最初のものだ。石造建築主体のヨーロッパの建造物と違って修復を繰り返しながら保存されてきた木造建築を世界遺産にするために、オーセンティシティーの点で多くの課題を解決する困難を日本とユネスコは経験した。
初めてのフランス旅を企てた2003年当時日本の世界遺産は文化遺産と自然遺産を合わせて11件に達しており、暫定リスト記載のもの、国内推薦を勝ち取ったもの、世界遺産登録を目指して各地で準備が進められているものなど、数多くの遺産が後に続こうとしていた。
一方、世界遺産の登録数が増えるにつれて、特に文化遺産の選定にあたってのヨーロッパ中心史観や大国への政治的配慮などが目につくようにもなってきて、世界遺産というものに関する基本的な考え方を一度整理しなおす必要があるのではないかと考えていた時期でもある。
そこでフランスに目を転じると、フランス人が「旧石器時代の世界の中心」と自慢する「ヴェゼール渓谷の先史的景観と装飾洞窟群」は1979年に登録されているのに、ヨーロッパの新石器時代を代表するモニュメントであるブルターニュの巨石建造物群が1996年に国内推薦候補になったきりその後なんの進展もないことを知り、なぜなんだろうという疑問が頭をもたげた。その理由を人から伝え聞くのではなく自分の目で見て考えてみようと思ったのだ。それに、先史時代の壁画洞窟やドルメン、メンヒルなどのメガリスは子供のころから行ってみたかった憧れの場所でもあり、考古学をなりわいとした今もその思いに変わりはなかった。
2004年には「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界文化遺産に登録され、「道」の歴史的、文化的価値について1999年に登録された「フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」も気になり始めていた。
もちろん、ガリアと呼ばれたフランスのローマ属州の遺跡も特に南仏にたくさん残されており、世界文化遺産に登録されているものもいくつかある。
モンテーニュが述べた「旅」に関するいくつかの言葉が頭をよぎる。
「自分たちとは相反する習慣に対して警戒心を抱くという気質を自負している姿を見ると、恥ずかしくなる。彼らは村から一歩出るだけで、身の置きどころがなくなるのだ。そして、どこに行っても、自分たちの習慣にこだわって、異国の習慣を忌みきらう。(中略)それらはフランス式ではないのだから、野蛮に決まっているというわけだ。(中略)打ち解けることのない慎重さでもって、ぴったり身を包んで、見知らぬ土地の空気に感染しないように用心しながら、旅をする」
「もっぱら書物にたよった知識力とは、なんとなさけない知識力であることか!(中略)また外国を訪ねるのも、よろしいかと。(中略)なによりも、そうした国民の気質や習慣をしっかりと見て、自分の脳みそを、そうした他者の脳みそと擦りあわせて、みがくためなのです。そのためにも、幼年時代のうちから、お子さんを外国に連れ出すといいと思います」
「異文化との交わりは、人類の寛容にかけがえのない光明をもたらすものです。私たちは皆、自分自身の中に閉じこもっていて、私たちの視野は、自分の鼻先を越えることすらできないのです。」(エセー1-25子供たちの教育について)。
ぼくは幼年時代はおろか中年になるまで海外を見た経験がなかった。「不幸にして」と言わないのは過ぎ去った年月を後悔していないからだ。「もっぱら書物にたよった知識」はぼくを頭でっかちにしたが、海外を見るときの心構えを得るため十分な熟成期間を与えられたと思っている。
つれあいとのフランス通いも通算9回を数える。地域とテーマを絞ってじっくり見て回ろうということで、まずテーマのキーワードを①旧石器時代の装飾洞窟群、②メガリス、③ローマ属州に決めた。そう決めてしまうと、地域はおのずから①フランス南西部、②ブルターニュ、③プロヴァンスに定まることになった。
実際に旅をしてみると、それぞれの地域でテーマに沿った知見を得ただけではなく、テーマから派生したものや、全く関係ないがおおいに好奇心を刺激されたことなど様々な経験や出会いがあった。そうして得たものを自分の感性に従って消化し、書き留めておかずにいられなくなって綴り始めたのが「ガリア紀行」だ。
フランス南西部では旧石器時代の装飾洞窟群に加えて中世の城砦、サン・ティアゴ・デ・コンポステラ巡礼路の聖地、ロマネスク建築などに感動し、底知れぬヨーロッパの淵をのぞき見て異文化というものを肌で感じた。その旅の記憶は「ガリア紀行その1オックの国」に納めた。2005年末に脱稿したのだからもう10年以上前になる。
フランスの中の異境とも言われるブルターニュでは、ヨーロッパの新石器時代の精華ともいえるメガリスのみならず、色濃く残るケルト系ブルトンの伝統と、かつてのブルターニュ公国の誇りを失わずにいるまつろわぬ民との出会いがあり、カトリックの中に融け込んだ東方キリスト教の影にも気付かされてまた新たな発見をした。その経験は「ガリア紀行その2ブルトンまたはケルトの国」に納めた。2007年のことだ。
一連の旅の締めくくりとして選んだのはローヌ川の中・下流域に広がるプロヴァンスである。この地域は、ギリシャ時代から地中海における交易の拠点があり、古代ローマの時代には最初の殖民都市が置かれた土地でもあることから、今も多くのローマ時代の遺跡が姿をとどめている。当時ローマ皇帝が何度も訪れたということもあり、気候が温暖で豊かなこの地域は退役軍人の定住地になったりもしたのだから、属州というよりローマそのものと言ってもいいのかもしれない。
なるほどガリアはローマによって征服されたのだが、現代フランス人たちのアイデンティティー形成に少なからぬ影響を及ぼしているというローマ時代のガリアにおける歴史というものが一体どういうものなのか、南仏人はどこかが違うのか、この目で確かめてみたいと思ったのだ。まさにガリア紀行では不可避の場所だといえる。
ピーター・ドラッカーは「知的という場合には、知識は本に書かれているものをいう。しかし、本に書かれているだけでは単なる資料ではないにしろ、情報に過ぎない。その情報があることを行うために用いられてはじめて知識となる。知識は電気や貨幣に似て、機能するときにはじめて存在する一種のエネルギーである。」(断絶の時代―来たるべき知識社会の構想)と述べている。
「ガリア紀行」というエセーは、それを綴ることによって旅で得た「情報」を「知識」にするための作業だった。
この「ガリア紀行その3」は、2007年の春と2010年の秋、それに2016年の秋と3度訪れた旅をまとめたので10年もかかってしまった。
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