Ecole de français du Kansai -Traduction, Interprétariat, Guide-
①メリメゆかりの城塞都市遺跡  ②La Cité ③駅前レストラン 
④カオールCahorsロット川のたまもの―黒いワインの里―  
⑤ポン・ヴァラントレPont Valentré サン・テティエンヌ聖堂
はじめに
トゥルーズToulouse

カルカッソンヌCarcassonne

ロカマドゥールRocamadourと
ロスピタレL’Hospitalet
スーイヤックSouillac
クロマニョン人の故地
あとがき―パリにて―
附:この旅で訪れた世界遺産

 
メリメゆかりの城塞都市遺跡 ―その歴史―


 シテが築かれた丘では新石器時代の遺跡が発見されているが、ここが要塞としての機能を持ち始めたのは紀元前2世紀ごろのことである。ピレネー山麓の異民族抗争多発地帯であったことから、それ以前にも小規模な軍事拠点が置かれていたが、ローマの退役軍人たちが住み始めたことから町が発展し、紀元前20年ごろにはコロニア・ユリア・カルカソという植民地ができあがっていたという。ローマ帝国崩壊後は300年にわたって西ゴート族が支配した時期があったが、8世紀にはイスラームが攻め込み、サラセン人の支配地となる。
 5年にわたる包囲戦の末、カルカッソンヌをフランス人の手に取り戻したのがシャルル大帝で、そのとき最後まで勇猛果敢に戦ったサラセン王の后スム・カルカスがこの町の名の由来だと伝説は伝えるが、では、ガロ・ローマのコロニア・ユリア・カルカソはどうなるのかな?
 11世紀以降トランカヴェル侯の領地になると、中東との交易で富み栄え、また、東方キリスト教の影響下に成立したカタリ派(アルビジョワ派)の一大拠点となった。善悪二元論を教義とし、禁欲、清貧を旨としたカタリ派は贅沢に墜したローマカトリックを悪魔のシナゴーグと呼んで激しく対立し、13世紀初めには異端の烙印を押されてアルビジョワ十字軍の総攻撃を受けることになる。この騒乱の中でトランカヴェル家は没落し、町は聖王ルイのものとなる。
 実は、教皇庁から異端と断罪されるまでは、カトリック信者もカタリ派の信者もシテの中で仲良く暮らしていたというのだが、次第にカトリック信者がシテを出て暮らすようになり、下町が形成されたという。
 13世紀以降カルカッソンヌは、カタリ派を取り締まる異端裁判所が置かれ、塔は牢獄としても使われた。数知れぬカタリ派信者の火刑が執行されたことであろう。19世紀に修復が始まったころ、荒れ果てた塔の床面から人骨が発見されたことがあったという。幽閉されてそのまま忘れ去られ、宗教裁判にもかけられることなく息絶えた者もいたのだ。

そういった時期に並行して、カタルーニヤとの国境の軍事拠点として、強固な要塞が完成していった。しかし、1659年のピレネー条約でスペインとの国境がピレネーの稜線まで後退するとともに要塞としての存在価値を失い、19世紀にはすでに廃墟化していた。城壁や教会まで破壊され、石材が建築材として運び出された。シテは石切り場のようになっていたのである。

1840年になると、カルカッソンヌ生まれのジャン‐ピエール・クロ‐マイヤベールJean-Pierre Cros-Mayrevieilleという人物が政府にカルカッソンヌの危機を訴え、サン・ナゼール・バジリカの修復に着手した。19世紀後半にはナポレオン3世のもとで文化財視察官をしていたカルメンの作者として有名なプロスペ・メリメProsper Merimeeが、調査に訪れたことで状況は一気に好転する。メリメの文才を生かしたアピールはフランス国内のみならず世界中にカルカッソンヌ修復の機運を広め、特にアメリカから多額の寄付を獲得したのだという。
カルカッソンヌの修復は今も続けられている。